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先史時代の遺跡「手の洞窟」
パタゴニアの渓谷には、いくつか「手の洞窟」というものがあります。これは約1万年ほど前に、先住民テウェルチェ族の祖先によって描かれたと言われる遺跡です。
洞窟の壁や天井には無数の手の跡が描かれています。これは壁に手を当てて、骨製のパイプで鉱物の塗料を吹きかけて描かれました。
手形だけではなく、周辺に生きる生き物、ラクダ科のグアナコ、ダチョウのダーウィンレア、ピューマなども描かれています。また、当時の狩りの様子や何らかの精神世界を表す幾何学的な模様などもあります。
人類がこの地に到着したのは、約1万年以上前の氷河期の末期と考えられています。
当時のパタゴニアの草原には、大型の地上性のナマケモノなども闊歩しており、今とは少し違う風景であったはずです。この地に人類が定着する頃に、人類の狩猟による影響かこの大型のナマケモノは絶滅してしまいます。
草原の先住民:テウェルチェ族
「手の洞窟」を描いた人々の子孫・テウェルチェ族は、約1万年以上もの間、パタゴニアの大草原の草原を移動しながら狩猟・採集の生活をしていました。
彼らが残した地名は今もいたるところに残っています。たとえば、名峰フィッツロイはテウェルチェ族には「チャルテン」と呼ばれていました。これは“雲を吐く山”を意味して、現在では山麓の村名となっています。
そして、パイネ国立公園の「パイネ」はテウェルチェ語で“青”を意味します。パイネ山群の麓には、氷河湖の青い湖が点在することから、そのように呼ばれるようになったのでしょう。
また、テウェルチェ族は東西の決まったコースを回るように移動生活をしていたのですが、その各キャンプ地を「アイケ」と呼んでいました。今でもパタゴニアに行けば、語尾に「アイケ」と名の付く地名を目にします。
スペインの新大陸発見と最後の時代
16世紀にスペインが新大陸を発見すると、テウェルチェ族の運命も大きく変化し始めます。当初は、マゼランなどの探検家たちは海岸線沿いに探査して、主に太平洋へ抜ける海のルートを探しました。スペイン人は黄金や銀を求めていたので、まだこの大草原を素通りしていました。
この時代にテウェルチェ族の人々は「パタゴン(大きな足を持つ人々)」と呼ばれ、この地は「パタゴニア(巨人の国)」と呼ばれるようになったのです。
探検家たちはまず彼らの足跡の大きさに驚いたと言われます。実際には、グアナコの毛皮の履物が足跡を大きく見せたのですが、当時のヨーロッパ人の足よりはるかに大きく見えたことから、ここは「巨人の国」に違いないと考えられました。
18世紀頃に、テウェルチェ族は初めて「馬」を使用するようになり、生活は革命的に変化しました。ヨーロッパ人の入植者から逃れた半野生化した馬を飼育するようになったのです。狩猟だけではなく、生活の行動範囲も広がることで、周辺のヨーロッパ人との交易も行うようになりました。
このような牧歌的な時代も19世紀には終わりを迎えます。
ヨーロッパ人が「牧羊業」を始めると、牧場の牧草地として、テウェルチェ族の生活の場を奪うようになったのです。この牧羊業の導入とともに、アルゼンチン政府は本格的にパタゴニアの草原を領土として組み込むことになり、テウェルチェ族は滅亡へと追いやられることになりました。
また、はしか、天然痘、インフルエンザなどの疫病も、ヨーロッパからもたらされて、テウェルチェ族に致命的な影響を及ぼしました。
現在、パタゴニア各地にテウェルチェ族の居住区がわずかに残りますが、すでにテウェルチェ語を話せる人はいなくなってしまったようです。
かつて1万年以上も同じ生活を続けていた先住民の生活は、今では古い白黒写真でしか伺い知ることしかできません。博物館や探検家の著作に残されたわずかな資料を見ながら、パタゴニアの原始の時代に思いを馳せるのは寂しいですが大きな浪漫でもあります。
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