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牧羊ブームで始まる「パタゴニア開拓史」
たった100年前のパタゴニアは、未開の土地として忘れられたフロンティアであった。
この頃はヨーロッパからの移民が大量にブエノスアイレスに住み着き、今のブエノスアイレスの原型を作り上げた時期だ。
当時のパタゴニアは生産的な価値の無い場所として放置されて、アルゼンチンとチリの国境も未画定であった。そんな未開の土地に、フォークランド諸島を起点に進出してきた英国系の移民が、パタゴニアの草原が羊の放牧に最適であることを発見する。
北米のアラスカでゴールド・ラッシュが起きた同時期に、パタゴニアではウール(羊毛)・ラッシュが起きたのだ。
アルゼンチン政府は慌ててパタゴニアの実効支配に乗り出し、未開のパタゴニアの土地を開拓民に配り始める。医療も全くない時代に、家族だけで、中にはたった一人で牧場を建設して、パタゴニアの草原を羊と牧羊犬、そして牧童(ガウチョ)が闊歩するようになる。
同時に、この地に訪れた文明の衝突で、先住民テウウェルチェ族、ヤーガン族などの狩猟採集民は絶滅に近いダメージを受けてしまう悲しい時代でもあるのだ。
1983年に始まる「エル・チャルテン村」建設
フィッツロイ山麓にも、数家族が牧場を建設していたが、まだ村は存在しなかった。
チャルテンに村が建設されたのはわずか30年ほど前の1983年だ。この時期、チャルテン周辺でチリとの小さな紛争が起きたことで、戦略的な理由で村が建設された。
村が建設されてから15年ほどの時期に訪れたが、まだフロンティアという言葉が相応しいほどに、まるで西部劇に出てきそうなワイルドな村だったものだ。
チャルテン村の建設以後、ペリトモレノ氷河も有名になり、パタゴニアは急速に観光地として発展する。フィッツロイ峰とセロトーレ峰という山の魅力に、この30年で人類はやっと気づいたわけだ。
まだまだ小さな村であるのは、国立公園局がしっかりと開発を食い止めていることもあるだろう。山麓は国立公園として保護されて、今も人工物を置くことは禁止されている。建前的には倒木さえも動かすなというほどに徹底している。
人の心を揺さぶるようなフィッツロイに魅了されて、チャルテン村は年々大きくなる。最近はとうとうディスコができてしまった。
でも、そこに住む人々の気持ちは、「フィッツロイへの憧憬」で共通するだろう。
フィッツロイ峰という自然の伽藍を望む“聖地”として、チャルテン村はきっと大きく肥大化することはなく、パタゴニア的な素朴さはいつまでも保たれるような気がしている。