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世界と共鳴する“知覚できない領域”へ
目に見えるものだけが世界ではない。意識では決して触れることのできないどこかに、もうひとつの世界は万華鏡のように存在するのではないか、言語化できない世界への淡い予感はふとした瞬間に訪れる。
世界と共鳴するような恍惚とした瞬間は、ときに“降りて来る”と表現される。
かつて地球が丸いことさえも知られていない時代には、この感覚は人々の生活に根付いていたのかもしれない。
ヨーロッパから見た「パタゴニア」とは
パタゴニアという土地は、マゼランが発見して以来、ヨーロッパ人にとって常に心の琴線に触れる土地であった。今なお、ヨーロッパ人にとって、パタゴニアは「心の旅」も兼ねた一種独特な憧れの対象だ。パタゴニアは今も昔も「文学的な」イマジネーションの源泉と言えるだろう
かつて大航海時代、ヨーロッパの人々は、パタゴニアを「悪魔の土地」と考えていた。それゆえに、マゼランは先住民を見て巨人と思いこみ探検記で伝えた。こうしてパタゴニアは、「巨人の住む国」=「パタゴニア」と呼ばれるようになった。この時代、南米大陸の南端部は地獄の一種のように考えられていて、頭と足が逆さまな人が住む「逆さま人の国」と呼ばれたこともあるのだ。
この時代に、とてつもない畏怖を形容して「パタゴニア的」という表現さえも生まれたほどに、パタゴニアは戯曲や小説でも様々な伝説が語られ、今でさえも可能性を秘めた怪しげな真実や嘘が飛び回る。
それはまさに本物の「ロマン」なのだ。
パタゴニアに訪れる多くの人々も「ロマン」を胸に抱いている。ただ大きな景色を見たいというものではなく、心の奥に去来する何かに突き動かれていることが多いが、そう簡単に口には出さないだろう。
フィッツロイ峰の基に集まる人々
その中でも、パタゴニアのフィッツロイ峰に住み着いてしまう人々は、パタゴニアへの憧憬が強い。その憧憬は宗教的でもあるほどで、フィッツロイ峰は心の支柱となっている。つまり、フィッツロイ峰は神様のような存在で、巨大な神殿に住んでいるような気持ちなのだ。
だから、フィッツロイ山麓のチャルテン村の人々は、他の町の人々とどこか異なるほどに独特に落ち着いている。彼らの胸には常にフィッツロイがある
歴史の浅いパタゴニアでは、まだ生まれも育ちもパタゴニアという人はごくわずかだ。フィッツロイに集まる人々のほぼ全てが、外からの移住者なのだ。そして、ほぼその全員がフィッツロイに特別な想いを抱いている。
黄昏のフィッツロイ峰
特にフィッツロイが僕たちにこの世ならぬ感覚をもたらしてくれるのは、薄明・黄昏の時間だ。闇の中にフィッツロイが浮かび上がるとき、世界はなぜかいつもシンと静まっている。黄昏の淡い時間は、古くからあの世と繋がる微細な時間と考えられていた。
雲・風・光線とフィッツロイ峰がもたらす幻想的な黄昏の景色は、パラレルに存在するもう一つの世界への予感を喚起させる。震えるような驚嘆と感動は、知覚できない領域に一瞬だけ自らが昇華した実感によるのだろうか。それは人の心に、小さくとも一生に関わる変化をもたらすと信じている
日常では決して獲得できない感覚を一瞬だけでも手にするために、人々はフィッツロイに集まる。それは地球からのこの上もないギフトなのだ。
(写真/トレッキング・山岳写真の聖地:パタゴニアのフィッツロイ峰チャルテン村へ)