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イースター島に勃興したモアイ文明
モアイにはかつて“目”があった。
空を見つめるように寂しげに佇むモアイがイメージとしてあるが、かつては目が嵌め込まれることで、モアイは霊力を持った存在として、威厳とともに人々を守る存在であった。
ポリネシアの海洋民族が太平洋の絶海の孤島に辿り着き、小さな島に文明が勃興した。4世紀、5世紀、また10世紀頃ともいわれる時代を起源として、イースター島に独自の文化が花開き、繁栄と守護の象徴としてモアイはいたるところに建造された。
モアイというと、海を見つめているイメージがあるが、実際には内陸を向き、村を見つめていたと言われる。モアイの目には、原初の力=マナが宿るとされ、珊瑚と赤色凝灰岩で作られた目が嵌め込まれていたのだ。モアイは各村を守る大切な守り神であった。
文明の崩壊は突然起きた
モアイが放棄されたのは、つい200~300年ほど前のことだ。イースター島の文明は古代文明と言われたりするが、実は日本でいえば江戸時代中期ころまで繁栄していたのだ。
人の歴史の軸から見れば、つい最近といえるほどの昔に、イースター島でいったい何が起こったのだろうか。文明の発展により島の資源を取りつくした、というのは定説であるが、それでも1000年も続いた文明が江戸時代に滅びたのには理由があるはずだ。
そこには、「大航海時代」が大きく関係しているようだ。
大航海時代:ヨーロッパ人の到達
16世紀にコロンブスが新大陸を発見して以来、ヨーロッパ人は世界中の海を探検した。16~17世紀、スペインとポルトガルが中心となり世界を探検する。マゼランの世界一周航海もこの時代だ。その後、世界の覇権はイギリスに取って代わられて、18世紀はイギリスやオランダなどが中心に世界を探検する。世界の海を探検したこの時代を「大航海時代」と言う。
イースター島にヨーロッパ人が到達したのは1722年であった。復活祭(イースター島)の日に到達したことから、イースター島と名付けられたと言われる。このとき、ヨーロッパ人は1000体以上のモアイが立ち、人々がモアイを崇めている姿を目撃している。
この小さなヨーロッパ人との接触が、イースター島の文明の歯車を狂わせてしまったようだ。
公式の記録ではヨーロッパ人が次に到達したのは、1774年のイギリスの探検家ジェームス・クックが来た時だ。その時にはモアイの半数ほどが倒されてしまっていた。そうして、全てのモアイが倒されたのは1840年ころと言われる。
わずか50年ほどの間にいったい何があったのかは謎であるが、1722年のヨーロッパ人との接触で何かが起こったことは予想できる。
文明崩壊のきっかけは「ねずみ」だった?
一説には、西洋人の船にいた「ネズミ」が、イースター島で繁殖したことが原因ではといわれる。
ネズミは急速に繁殖して、島の生態系が崩れて、森が消えてしまったのだ。資源を失った島には戦乱が起こり、全てのモアイは倒されて、瞬く間に文明は崩壊してしまう。モアイを削り出していた石切り場「ラノララク」にはまだ建造中のモアイが多数残されているほどに、急激に戦乱が起こり一気に崩壊したことを物語る。
少ない資源を奪い合う中で、人々は敵対する村のモアイを倒し、目を破壊した。霊力の象徴を破壊することは、当時の戦いでとても重要なことだったのだろう。
こうして19世紀には島民の数は激減して、かつての文明の存在をも忘れてしまうのだ。過去の記憶を伝承だけで後世に残すのだが、伝承を伝える人がいなくなってしまえば、1世紀もしないうちに過去の栄華も忘れられてしまうのだ。
復興する人々のアイデンティティ
当時の栄華を名残は、モアイだけだ。しかし、人々の心の奥底にポリネシア人としての記憶は眠っていたのだろう
その後、チリへの編入という激動の時代を経て、いま少しずつイースター島の人々のアイデンティティは取り戻されている。モアイはアイデンティティの象徴だ。
年に一回の祭り・タパティでは、島の人々は古くから伝わる踊りとともに、カヌーの神輿を担ぎ島を練り歩く。
タパティの賑わいは年々増し、イースター島に新しい時代が始まろうとしている
ポリネシアの海洋民族としての自覚とともに、イースター島はいま覚醒しようとしているのだ。
【動画】イースター島の絶景スポット:モアイ文明の謎
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