レンソイス砂漠に行くときに、ブラジルの国内線が着陸する最寄りの都市がサンルイスです。
この都市の旧市街はポルトガル植民地時代のコロニアな街並みが世界遺産に指定されています。
サンルイスの歴史は、ブラジル北東部の歴史そのものであり、ブラジルという国にとっても、アイデンティティに繋がる大きな側面です。
目次
大航海時代、フランス人による建設
ブラジル北東岸にあるマラニョン州は、世界地図を見れば分かる通りに、直線距離でヨーロッパやアフリカ大陸の西岸から比較的に近いことから、大航海時代の早い時代にヨーロッパの勢力が入れ替わりにやってきました。
サンルイスはメアリン川という大河の下流域の三角州にあります。当時は、ここにツピナンバ族という部族の小さな村がありました。
南米大陸が長く先住民の大地であった時代は、1492年にコロンブスの新大陸発見により大きく変化します。
1494年には、スペインとポルトガルによる世界を2分割するトリデシリャス条約により、ブラジル周辺はポルトガル領となりました。しかし、この条約を認めないフランスは、たびたびブラジルに侵入して支配地域を増やしていました。
サンルイスを最初に植民したのも、フランスでした。ここが天然の良港という条件の良さから砦を築き、1612年に「サン・ルイ」と名付けました。当時のフランス王のルイ13世にちなんだと言われています。
この名前からポルトガル語ではサンルイスと呼ばれるようになったのです。
ポルトガル副王領による植民とプランテーション経営
その後、すぐにポルトガルがこの町を奪取して、一時的にオランダに支配された時代もありますが、19世紀のブラジル独立までポルトガル領でした。
マラニョン州は、ポルトガル王室の直轄領として、マラニョン・グラン・パラ副王領という植民地となりました。
温暖で肥沃な大地にプランテーション(大農園)を築き、サトウキビ、カカオ、タバコを生産していました。
ポルトガルが入植した貴族は働き手として、アフリカ大陸から大量の奴隷を連れてくることになります。
もともとこの地にいた先住民は少なく、またヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘により絶滅寸前になっていたからです。
奴隷の三角貿易
奴隷の供給先は、西アフリカの奴隷海岸でした。今のナイジェリアやトーゴなどから、大量にアフリカ人がブラジルに送られました。
このとき完成したのが、奴隷の三角貿易です。
まず、ヨーロッパを出た船は、カナリア海流に乗り南下します。繊維製品やラム酒、武器を積み荷としました。
これらは西アフリカで売りさばきます。武器はアフリカ人の手に渡し、敵対する部族を襲わせることで、ヨーロッパ人は手を染めることなく、奴隷を確保したことも多くありました。
西アフリカからは、アフリカ人の奴隷を積み荷として、貿易風に乗り、ブラジル北東岸を目指しました。その一つがマラニョン州のサンルイスです。
サンルイスからは、プランテーションで生産された砂糖などを積み荷として、メキシコ湾流に乗り、ヨーロッパへと戻りました。
このポルトガルによる植民時代は約200年ほど続き、多くの富がヨーロッパへと流れていました。
解放奴隷・逃亡奴隷の共同体「キロンボ」とブラジル文化
ブラジルの独立後、1888年の奴隷解放宣言まで、黒人奴隷の苦難の時代でした。
プランテーションから逃亡した奴隷も多く存在していて、彼らがレンソイス砂漠周辺に最初に住み着いた人々です。
解放奴隷と逃亡奴隷の子孫が築いた共同体は「キロンボ」と呼ばれます。
この単語は、ブラジルでは決してマイナスな言葉ではないそうです。
なぜならば、ブラジルの文化(音楽・料理・宗教観など)では、「キロンボ」による影響は大きいからです。
特に、植民地時代にプランテーション経営が盛んであったブラジル北東岸では、「キロンボ」の人口はとても多いです。
現在では、ブラジルのアイデンティティに関わる存在として、「キロンボ」はブラジル社会においても重要な立場を占めてます。
サンルイス旧市街はかつての繁栄を忍ばせる静かな古都です。
天然資源に恵まれることから都市としての成長が著しく、旧市街の周りにある新市街や住宅街は拡大を続けています。現在の人口は約100万人の大都市です。
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