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水晶の砂漠レンソイスとは
レンソイス砂漠は、ブラジル北東部・マラニャン州の大西洋岸にあります。白い砂は、アマゾンの支流から大西洋に流れ込んだ水晶です。長い年月をかけて貿易風と大西洋の荒波に研磨されながら積み重なり、巨大な白い砂漠が創り出されました。
この砂漠は、年に約3ヵ月だけ無数の湖が湧き出す絶景で有名です。白い砂漠に約2万個ともいわれる湖が青や緑に輝く絶景は、世界でも稀な自然現象です。
オアシスに暮らす“砂漠の民”
一見すると無人の荒野に見えますが、この砂漠には人が暮らしています。砂漠を歩いていれば、人や家畜の痕跡をかすかに見つけることができるでしょう。
砂漠の民はカシューナッツが繁るオアシスに住み、羊やヤギの牧畜と大西洋岸での釣りにより、今も細々とした半自給自足の生活をしています。
こんな辺境の地になぜ人が住んでいるのだろうか。
ここに来れば誰もが、そんな疑問を抱くのではと思います。
ポルトガル植民地時代に栄えたマラニャン州の歴史
レンソイス砂漠よりも内陸へ車で3時間ほどのサン・マルコス湾に、マラニャン州の州都サン・ルイスがあります。この町はかつてポルトガルの植民地時代には、ブラジル第3の都市として栄えていました。今も旧市街にはポルトガル時代の古い街並みが残ります。
世界地図を広げるとすぐに分かりますが、ブラジル北東部は、南米大陸から西アフリカに最も近い場所です。西アフリカの海岸線は、かつて「奴隷海岸」と呼ばれていました。16世紀から19世紀まで、ポルトガルによって多くの黒人奴隷が連れて来られたのが、ブラジル北東岸のサン・ルイスです。その人数は350万人~1000万人と言われ、現在のマラニャン州の人口構成でも黒人が8割を越えます。
奴隷労働を基本としたプランテーションでは主にサトウキビと綿が栽培されていました。そして産物はサン・ルイスからヨーロッパへと送られて売買されたのです。大航海時代の数百年に渡る“富の収奪”により、ヨーロッパには資本が集中します。こうして世界はヨーロッパを中核とした近代資本主義の時代に移行するのです。
しかし、ブラジル独立後、1888年の「奴隷解放宣言」とともに、ブラジル北東部のプランテーション経済は破綻をきたします。サン・ルイスもまたその役目を終えて、小さな地方都市として現在に至ります。
レンソイス砂漠への移住
レンソイス砂漠の周辺部には、もともと先住民のインディオが住まない無人の土地でした。畑作に合わない砂漠が広がるために、ポルトガルもこの地を開発することはなく、無人のままでした。
レンソイス砂漠に住む人たちのルーツが気になり、地元の人に聞いたことがあります。彼らは、“逃亡奴隷”のコミュニティが始まりではないかとのことでした。
強制労働から逃れて、この辺境のレンソイスには追手も来ないので、逃げ込んだ人々は細々とでも生活ができたのかもしれません。
こうして最初にレンソイスに移り住んだ人々に、白い砂漠と湖の絶景はどのように見えていたのでしょう。
歴史だけで考えれば時系列の記録に過ぎませんが、一人ひとりに物語があるはずです。
現在のレンソイスの生活
レンソイス砂漠に暮らす“砂漠の民”は、今では土地に根付いて平和に暮らしています。
砂漠といえども、地下に水分を貯えるために気候は意外に過ごしやすく、延々と広がるカシューナッツの林ではカシューナッツの収穫とともに、キャッサバイモを植えて、家畜を砂漠で放牧し、海では釣り(片道3時間かけて歩きます)をすることもできます。貧しくとも、自然の恵みがあるのです。
砂漠の砂丘は生き物のように動くので、人々の生活は砂漠に翻弄される面もあります。砂丘が動けばわずか数年で家が飲み込まれることもあるからです。
この20年ほどで、レンソイス砂漠はツーリストに注目されるようになり、砂漠に住む人々の収入もツーリズムへの依存が増しているようです。現金収入を得ることで、数年ごとに訪れるオアシスも設備が増えて立派になっています。
異邦人にとってそれは少し寂しいことですが、地元の人にとってはツーリストの訪問は新たな生活の糧となっているのです。
「レンソイス(ブラジル)」専用ページ
【動画】空撮絶景:レンソイス・マラニャンセス国立公園の幻想風景-4K(ブラジル)
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