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風景写真家・松井章のブログ

ボリビア日本人移住地訪問記(2)コロニア・オキナワとサンフアンへ

リマの空港トラブル


2024年6月の初め、南米の真冬、ペルーのアンデス山脈で1週間ほど、寒く薄い空気の高原で過ごした後で、ボリビアへ向かいました。一度、海抜ゼロメートルにある首都のリマに下りてから、ボリビアのサンタクルス行の国際線に乗り継ぎます。
このとき、不幸にも空港のトラブルで2日間ほど、リマに停滞することになりました。なかなか信じがたい話ですが、原因は滑走路の誘導灯の故障です。離着陸できなくなり、約120便の飛行機がフライトキャンセルとなりました。

遠くはスペインや北米から来た飛行機も着陸できず、上空でいつまでも旋回しています。どうやら周辺の空港もいっぱいになってしまい、旋回しながら緊急着陸する空港を探しているようです。夜のニュースを見て知ったことは、アメリカから来た飛行機がどの空港にも着陸できず、中米のパナマまで戻り、ようやく着陸できた飛行機もあったということでした。

こうしてリマに2日間ほど滞在することになりました。6月のリマはアンデス山脈に負けないほどに寒いです。この時期に特有の太平洋から流れて来る“ガルーア”という霧の影響で、いつも空は曇っていて、気温が大きく下がるからです。
めったに経験しないタイプの空港トラブルを経て、ようやくボリビアのサンタクルスに到着しました。サンタクルスも冬でしたが、湿度のある温かい空気に少しホッとしたのを覚えています。

サンタクルスにて


サンタクルスは人口約190万人を擁するボリビア第二の都市です。第一の都市であるラパスがアンデス高原に位置するのに対して、サンタクルスはアマゾンの熱帯地方にあります。
私はボリビアには何度も来ていましたが、そのほとんどがラパスを基点にアンデス高原(アルティプラーノ)を訪れていました。なので、サンタクルスに着いてすぐに思ったことは、“ここは別の国ではないか”と思うほどの雰囲気の違いでしょう。
それほどに、サンタクルスの町も人も、アンデス高原は異なるのです。
アマゾンとはいえ、広大な“大アマゾン”から見れば、サンタクルスはアンデス山脈に近く、標高400mの高原にあります。6月は、夜になれば少し肌寒いほどの気温でした。

リマ発の国際線は夜行便だったので、サンタクルス到着時間は朝の5時でした。
大変ありがたいことに、空港には日系2世の黒岩幸一さんが迎えに来てくれていました。打ち合わせで何度か連絡はしていたものの初めての顔合わせです。とはいえ、黒岩さんは日本人そのままで日本語を話すので、自分は南米にいることを一瞬忘れてしまいそうでした。
朝からご自宅に案内していただき、お母様のお手製のヒレカツやご飯、お味噌汁をご馳走になりました。ペルーに約10日間ほど滞在していたので、日本食は体に染み渡るようで元気が出てきました。
黒岩幸一さんは、サンタクルスで日本食のシェフやアドバイザーを生業としています。ここで手に入る日本の食材は限られているので、地元の食材を生かして和を追及しています。足りないものは自分で作るという発想で、ご自宅では日本酒の醸造をしていて、近いうちに商品化もするということでした。南米に根を下ろした日本人が持つ、当たり前のような逞しさや創意工夫の精神なのかもしれません。

サンタクルスに着いてまずお聞きしたのは、ボリビアの最新事情でした。特に、道路封鎖の状況は気になしていました。現在ボリビアでは政府への抗議デモの一環として、頻繁に道路の封鎖が行われることがあります。封鎖されてしまうと、物流が全て遮断されるので、道路封鎖はとても大きな問題です。
私が滞在中も道路封鎖のお話は何度か耳にしましたが、幸いにも私が移動する区間では問題はありませんでした。

いよいよ日本人移住地へ


朝、運転手のカルロスの車で、いよいよサンファン移住地へと出発です。サンタクルスのビルビル国際空港を過ぎて、30分もすると、サンタクルスの都市圏を出て、左右はどこまでも畑や牧場です。
ビルビル国際空港の“ビルビル”はグアラニー語で「平野」を意味するそうです。空港の周りの田園風景を見れば、まさしく“ビルビル”であることを理解できます。

この空港は、日本の円借款の供与(対中南米ODAプロジェクトの一環)で1983年に開港しました。もともとは高原の大都市ラパスのエル・アルト国際空港がハブでした。しかし、標高4070mの高地にあるので、大型機の離発着や保守管理に支障をきたす恐れがあり、この空港の建設が決まりました。建設には多くの日本企業も参加したそうです。現在では、外国からボリビアに入国するときには、半分以上のフライトがサンタクルスに入港するほどに、ビルビル国際空港はボリビアのハブとなっています。

話は逸れますが、サンタクルスから東にある、ブラジル国境方面のチキタニア地方にも行きました。何度か道路と交差する線路を見たものです。サンタクルスとブラジルのコルンバを繋ぐ路線で、この線路の建設にも日本人が関わっていることを聞いて驚いたものです。
南米にいると親日的と感じることが多々あります。その根底には、日本人による長年の各地への貢献から生じた大きな信用なのだと思います。

サンファン移住地①


サンタクルスから国道4号線を北上して、モンテーロの町で道路は分岐します。左はコロニア・サンファン、右に行けばコロニア・オキナワです。
左に曲がり、田園地帯や集落、ジャングルのような熱帯の木立を過ぎて、約1時間もすればサンファン移住地に着きます。陽が高くなるにつれて気温は上がり、冬とはいえ蒸し暑くなっていました。

今年(訪問時は2024年)で69周年を迎えるサンファン移住地は、現在は約240家族(約750人)の日系人が暮らしています。1955年に始まる最初の入植は、「西川移民団」と呼ばれる移住者たち(14家族88名)でした。日本で精糖業の企業経営をしていた西川利道が、ボリビアでの製糖に着目して企業として移民団を結成したのです。
1956年からは、(JICAの前身にあたる)海外移民事業団が移民事業を引き継ぎ、移住が本格化します。1969年まで移住は続き、九州からの移民団を中心に、約300家族(約1700名)がここに移住しました。

サンファン移住地とオキナワ移住地は、どちらも当初はアマゾンの原生林でした。道路も水道もインフラが何も無い荒地の開拓は困難を極め、日本へ引き揚げる人々や、サンタクルス、あるいはブラジル、アルゼンチンなどへ転住する人も後を絶ちませんでした。
苦しくも徐々に好転し始めたのは1970年代です。CAISY(サンフアン農牧総合協同組合)の設立とともに機械化や大規模農業化が進めたことで、ようやく光が見え始めました。養鶏、大豆、米、小麦や果樹の栽培や畜産業など、経営の複合化とともに飛躍的に発展することになりました。
稲作の収穫は非常に大きく、質の高い米が生産されることから、「ボリビアの米どころ」として大きく販売を伸ばしています。

サンファン移住地に着くと、地元の池田潤平さんが迎えに来てくださいました。ランドクルーザーから姿を現した池田さんは、挨拶も早々にさっそく私を車に乗せて、移住地へ案内してくれました。

車は、南米らしい大空の下、まっすぐな農道を走ります。この農道も移住者の方が自分で切り開いた道であるそうです。途中、穂を実らせた畑で栽培していたのは、ソルゴーという飼料用の作物でした。

そして、大草原にある徳永直人さんの牧場へ着きました。徳永直人さんの牧場では、700頭もの牛を放牧しています。
南米の牛は、牛舎で飼育されるのではなく、大草原で放牧されているので、赤肉と脂肪のバランスの取れた肉質が特徴です。ボリビア東部で飼育されている放牧牛はネロール種という品種で、背中にコブがある牛です。もともとはインドから持ち込まれた牛でブラジルやボリビア東部で飼育されています。
サンタクルスで食べたネロール種のステーキは、個人的には世界で一番美味しいのではと感じるほどでした。市内には、ネロール種のコブ専門の焼肉店もあり、サンタクルス人はかなり肉好きなのが分かります。

徳永さんの牧場もまた、そのネロール種の牛をたくさん放牧していました。貯め池を中心に放射状にいくつかの区画を作り、その区画ごとに牛を移動させて、バランス良く牧草を食べさせる仕組みです。私が着いたときに、ちょうど牛たちが土煙を上げて走ってきました。中心の貯め池に来ると、牛たちはそのまま隣の区画に移動していきました。自分たちで動いているようで、その賢さに驚きました。
なんとも南米らしい雲が浮く空の下で働く日本人は、とても逞しく明るい方でした。

次は、サンファン日本ボリビア協会会長の日比野正靭さんのご自宅へ。とても大きな敷地のご自宅に通していただき、当時のお話をお聞きしました。日比野さんは18歳の時に、この移住地がまだ原生林に覆われている時代にご両親とともに入植しました。船を降りて、ブラジルのサントス港からは、さらに鉄道で数日かけてサンタクルスにたどり着きました。

この時、サンタクルスまで後少しという所で、鉄道は止まってしまいます。リオ・グランデ川が大洪水に見舞われて鉄橋が破損していて鉄道が通れなくなってしまったからです。日比野さんは徒歩で恐る恐る橋を歩いて、女性たちは渡し船で命からがらこの川を渡ったそうです。
日本を出てサンファンに着くまでは数ヵ月もかかった末に、原生林の中で降ろされてとても驚いたそうです。移民事業団の集団移住で来たので、約20家族の荷物を積んだトラクラーとけん引車両は、衣服や燃料など1トン以上を運んで来たそうです。
当時、すでに森は3ヘクタールほど伐採されてはいたものの、森は青々と茂り、おそらく威圧的であったことでしょう。森は焼き払おうとしても、根までは取れず開拓は苦労の連続でした。
低湿地を利用して、稲作を始め、さらに養鶏事業を始めてから、ようやく生活は安定したそうです。地平線まで畑が広がるように開拓するまで8年の月日が経ちました。そして、畑の彼方に、はじめてアンボロ国立公園の山々を望めたそうです。

移住をする前に日本では、現地の移住先には道路や学校もある土地だと聞いていたそうです。実際には、電気や水道、道路も家も無いとは思いもしていなかったそうです。多くの方が日本を発つ前に資産整理を済ませて希望とともにやって来たので、裏切られたという気持ちを抱いていたそうです。
開拓が始まると、他方ではJICAを通して、日本からの支援も始まりました。たとえば道路の建設などは移住地にとても欠かせない支援となりました。
苦労続きの末に、ようやく現在の幸せな生活を暮らしているわけですが、移住地の今後の将来を考えると心配なことがあるとも言っていたのが印象的です。
<続く>

日本ボリビア協会の会報誌「カントゥータ58号」に掲載の『日本人移住地訪問記(2) コロニア・サンファンとコロニア・オキナワを訪ねて』に、「リマの空港トラブル」編を加筆しました

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