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世界で8番目に大きな国アルゼンチン
世界で8番目に大きな面積を持つアルゼンチンは、南極大陸に近い南端のパタゴニア地方から、イグアスの滝のような熱帯気候まで、南北3700kmの国土には実に多彩な自然・風景が広がります。
その熱帯地域から緯度はほぼ同じですが、アルゼンチン北西部のアンデス山脈にウマワカ渓谷はあります。
標高が高いことから気候は寒冷で、典型的なアンデス山脈の気候です。
季節は、雨季と乾季の2つに分かれ、乾季には晴れの日が多く、アンデスらしい深い青空を見ることができます。
陽が出ると20度くらいまで上がりますが、日陰に凍えるほどの寒暖差があります。
アルゼンチンのブエノスアイレスやイグアスの滝、あるいはパタゴニアと異なる、アンデス文化圏に来たのだと実感できるでしょう。
アンデス山脈とインカ文化圏の関係
アンデス山脈は、北はベネズエラから始まり、南はアルゼンチンのパタゴニアまで、南北7500kmも続く長大な山脈です。
南米の自然の多くは、このアンデス山脈に影響されています。アマゾン川もまたアンデス山脈から流れる無数の川が集まって成り立ちます。
このアンデス山脈で栄えたのが、インカ文明を興した山岳民族ケチュア族とアイマラ族です。
彼らは紀元前10世紀くらいから、今もアンデス山脈に暮らしています。
いくつもの古代文明の興隆に関わり、その中で一番新しいのが「インカ文明」です。
インカ文明は、13~16世紀に栄えました。
日本では鎌倉・室町時代に当たることからも、実際にはインカは意外にも新しい文明です。
紀元前約10世紀頃からのいくつもの文明があって、その末に生まれたのがインカ文明です。
インカ文明の中心地は、首都クスコです。近くにはマチュピチュもあり、まさにインカ文明の中枢でした。
このクスコを中心に、まず山岳民族のケチュア族が勢力を拡大しました。この時代はインカ帝国の前身「クスコ王国」でした。
クスコ王国のケチュア族は勢力を拡大するなかで、チチカカ湖より東の一大勢力であったアイマラ族と合併して、強大な力を手にしました。
これが「インカ帝国」です。
インカ帝国発祥の地がチチカカ湖とされるのも、ケチュア族とアイマラ族が手を結んだ地であるからではと思います。
インカ帝国の要「インカ道」とウマワカ渓谷
彼らは低地を好まないのが特徴で、ほとんどの人々が標高2000m以上の高地に好んで暮らしています。
そのことから、インカ文明もアンデス山脈に沿うようにして、勢力を拡大しました。
約200年ほどの間に、小さなクスコ王国は、南北4000kmに及ぶインカ帝国となりました。
この大帝国の統治で重要だったのは「道路網」です。
ヨーロッパでローマ帝国が街道の整備に力を入れたのと同じく、インカ帝国もまた「インカ道」という道路網の整備に注力して、約6万kmもの道路を作りました。
ウマワカ渓谷もインカ帝国の一部でした。
「インカ道」は、ボリビアからアルゼンチン北部へとウマワカ渓谷を縦断して、フフイ方面へと南下していました。
ウマワカ渓谷は、南北を結ぶ巨大な回廊のような谷であったのです。
この道路に沿うように、おそらくインカ帝国のケチュア族とアイアマラ族は南下して来て、この地に定着したと思われます。
ウマワカ渓谷は交易の重要な要衝であり、資源を採掘する拠点でもあったからです。
ウマワカ渓谷を語るときに、インカ帝国は、切り離すことのできない存在です。
ウマワカ渓谷へ
アルゼンチン北西部のアンデス山脈に位置するウマワカ渓谷は、サルタとフフイという2つの町が基点になります。この周辺の地域は、最も大きな町・サルタにちなみ、サルタ地方と呼ぶこともあります。
ウマワカ渓谷の南にある標高1200mのフフイから、2000m、そして3000mへと標高は上がり、深い谷は150kmも続きます。
そして、ウマワカ渓谷の北端は、ボリビアとの国境地帯です。
ウマワカ渓谷に入ると、住民の多くはアンデス先住民系の人々です。
アルゼンチンの人種構成は、人口の9割以上がスペインやイタリア系ですので、ウマワカ渓谷の人や文化はボリビアやペルーの方に近いでしょう。
彼らは古くから継承するアンデス文化を大切に守り、民族衣装を身にまとい、ケチュア語やアイマラ語を話します。
フフイからウマワカ渓谷に入ると、さっそく渓谷に綺麗な模様が見えてきます。
これは地中に含まれる鉱物が、地層から露出しているからです。
太陽光線の角度によって色合いは微妙に変わり、鉱物の地層が幾重にも重なる部分は、
虹のように鮮やかに輝きます。
そのため、ウマワカ渓谷は「虹の谷」とも呼ばれます。