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ボリビアの日本人移住地を訪問するきっかけ
ボリビアには2つの日本人移住地があります。サンタクルス州のコロニア・オキナワとコロニア・サンファンです。この2つの移住地(コロニア)は、戦後に集団移住した人々に建設されました。
日本人移住地という存在を知るにつれて、もし写真家として撮影するとしたら、そこに大切な意味があるのではないだろうか。現代日本がすでに失った日本人の面影をボリビアの日本人移住地に感じ取れるかもしれないとも直感しました。
ボリビアの日系社会はペルーやブラジルの日系社会とは異なる歴史を持っています。日本では、ボリビアの日系社会について、なぜかほとんど知られていないことに、私なりに疑問を感じました。日本人の同胞が南米の大地に根ざしていることは、日本の私たちを勇気づける大きな存在です。それを知ってもらうことはとても意義があると思うからです。「写真」を通して、ボリビア日系社会を少しでも紹介することができないものか。もちろん、私自身の世界観を広げることができるかもしれない、という好奇心が大きく後押ししました。
インターネットで調べても、わずかな情報しか得られないなか、日本ボリビア協会の会報誌「カントゥータ」から渡邊英樹氏の著作『ボリビア開拓記外伝』を知りました。しかし、この本の入手は困難で日本ボリビア協会に連絡して、細萱恵子理事から渡邊英樹氏を直接ご紹介いただきました。著者ご本人様から、入植当時のお話などを伺い貴重な情報をご提供いだけたのは、とても幸運なことでした。
軽快な筆致の著作を通して、約70年前に始まる開拓の困難と、それでも失われない未来志向な「日系人の歩み」にすっかりと魅せられました。
この土地に暮らす人たちを知り、できれば写真に撮りたいと思いました。
日本人のボリビアへの移民の歴史
日本人移住地を知るためには、まずボリビアへの移民の歴史を知ることは大切です。今年は「日本人ボリビア移住125周年」と「コロニア・オキナワ入植70周年」でもあります。
最初の日本人のボリビアへの移民は、コロニア・オキナワやコロニア・サンファンへの移住から遡ること、さらに約55年前の1899年(明治32年)でした。
ペルーからアンデス山脈を越えてやって来た人びとが、ボリビアでのまさに最初の日本人です。
当時、日本から多くの移民がペルーに来ました。しかし、移住先での過酷な生活に苦しむ人も多く、言わば逃亡するような形で隣国のボリビアへ再移住を試みたものです。
第一次大戦前、世界的なゴム需要に合わせて、ボリビア北東部のアマゾンにあるリベラルタには、空前の天然ゴム景気が到来していました。最盛期にはリベラルタに移住した日本人の総数は約800人にのぼり、彼らはゴム採集の労働をしていました。
その後、天然ゴム景気の終焉と共に、日本人移民の中にはアマゾンを離れて、ラパス等の都市圏にも住み、商店やクリーニング業などを生業とする人々が現れます。この時代の日本人移民が、ボリビアに定住した最初の日系人として、その地歩を固めました。
第二次大戦後の集団移住も、その日系人たちが敗戦で困窮する日本人を救う目的で呼びかけたことで始まります。
コロニアの人たちとの出会い
ボリビアの日本人移住の歴史を学ぶなか、ナタリア・サラサール駐日ボリビア臨時大使が、コロニア・オキナワとコロニア・サンフアンから来日している3人の若者を招き、お話をする場を用意してくれました。
彼らの話を聞くことで、日本人移住地の今の姿を想像できました。たとえば、8月に盆踊りが開催されることなどを聞くと、ボリビアに息づく日本の文化とはどのようなものか興味はさらに大きくなりました。
そして、若者たちの一人である仁田原晃美さんにお願いして、地元の方を紹介していただきました。
サンタクルスの黒岩幸一さん、サンファンの池田潤平さんです。お二人と直に連絡をすることで、いよいよボリビア取材の最初の一歩が始まりました。
この取材準備の時には、日本ボリビア協会の椿秀洋会長と吉田憲司理事にお会いしてボリビアの貴重な情報をいただいたことも一つの重要な転機です。在サンタクルス領事事務所の岡本弘領事をご紹介されて、当地では温かく応援していただきました。
ボリビアの撮影を決めてから、いろいろな方とお話を重ねて半年ほどが経つ頃に、ようやくボリビアへの出発となりました。
<続く>