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アラゴン地方・ピレネー山脈の古都ウエスカ
6月上旬、アラゴン州のウエスカに来ました。バルセロナ・サンツ駅のバスターミナルで長距離バスに乗り約4時間、大都会のバルセロナを出て西に進むに連れて、景色はのどかな農村風景に変わりました。
ウエスカはピレネー山脈の山麓にある古都です。中世の時代には数百年にわたり、キリスト教徒とイスラム教徒が戦略的な拠点としてウエスカをめぐり攻防しました。
ローマ時代に遡る古都の歴史
西ヨーロッパの大半がローマ帝国の影響を受けて成立したように、スペインもまたローマ帝国が有史から最も重要な起源の一つと言えるでしょう。今もその痕跡は至るところに残り、道路網から建築物まで2000年以上も前の偉大な文明が土台となっています。
もちろんイベリア半島には、ローマ以前にギリシア人やフェニキア人の都市もありましたが、後世に与えた影響を考えれば、ローマ帝国が現在のスペインに直結する存在であるのです。
「全ての道はローマに通ず」という有名な言葉は、文字通りローマ帝国が築いた道路網を指しています。物流を盛んにする道路は、有事には軍が敏速に移動する安全保障の役割もありました。
ウエスカが築かれたのは紀元前100年前後に遡ります。ローマ帝国の役人クィントゥス・セルトリウスが、ローマ直轄の「植民都市(コロニア)」として建設したのが始まりです。ローマは破竹の勢いで支配地を地中海全体に広げる過程で、多くの部族を同化していきました。ローマ市民として受け入れながらも、各地の部族に睨みを利かせるために築かれたのが、ローマ直轄の「植民都市(コロニア)」です。
英語の“コロニー”という単語は、もともとは植民都市を意味する“コロニア”というラテン語に由来します。
ウエスカもその植民都市の一つで、ローマとを繋ぐ街道も敷設されてイベリア半島支配の一拠点となりました。
イスラム教徒と攻防する中世の歴史
5世紀頃からローマ帝国が著しく弱体化すると、イベリア半島は西ゴート族に侵略され群雄割拠の荒れた中世の時代に突入します。8世紀には北アフリカから来たイスラム教徒のウマイヤ朝がイベリア半島を支配すると、ウエスカもイベリア半島北部の彼らの軍事拠点となりました。
ピレネー山脈の北へと追いやられたキリスト教徒は、イベリア半島を奪還する「国土復帰運動(レコンキスタ)」をパルチザン的な活動で始めます。
11世紀、キリスト教徒による本格的な反転攻勢の時代が始まると、ウエスカはアラゴン王・ペドロ1世により奪還されました。アラゴン王は山岳地帯から駆け下りるように攻勢を始め、肥沃な小麦畑が広がるウエスカ、そしてエブロ川流域のサラゴサを奪還、アラゴン王国の繁栄への礎を築きます。
アラゴン王国の地中海への進出
アラゴン王国は破竹の勢いでイスラム教徒を駆逐して、イベリア半島北部の覇者となりました。
その後は、バルセロナ周辺のカタルーニャ王国と統合して、地中海へ進出します。バレンシア地方を手始めに、地中海のマジョルカ島(バレアレス諸島)を占領、さらにイタリアのサルデーニャ島、ナポリからシチリア島までも一時は支配したほどです
ウエスカからピレネー山脈へ
ピレネー山脈という風光明媚な山岳地帯は、「国土復帰運動(レコンキスタ)」に関連して、スペインの歴史でも重要なエリアです。素朴な農村や山岳風景の美しさに加えて、歴史を知ることで、さらにスペインを楽しむことができます。
ウエスカから始まるピレネー山脈の旅は、まず小麦畑の農村を抜けて南麓のアルカサルへと向かいます。