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風景写真家・松井章のブログ

ペルー旅行の魅力を解説②:インカ帝国の古都“クスコ”の歴史と古代遺跡群

インカ帝国とスペインの文化融合:古都クスコ

ペルーの古都クスコは、標高3400mのアンデス高原に位置する高原都市です。
かつて13世紀頃から約300年、インカ帝国はクスコを都として栄えました。その後、コロンブスの新大陸発見によるスペイン人の侵略から、インカの都市のうえに、スペイン調の都市が建設されました。

インカ帝国とスペインの文化が融合した古都として、クスコは世界遺産にも指定されています。日本でいえば京都のような存在がクスコなのです。

黄金の都・クスコの栄光


13世紀頃から南米大陸の中央部アンデス山脈で勢力を拡大したインカ族(ケチュア族)は、数千年のアンデス文明(プレ・インカ時代)の文化を継承した民族です。“天空の湖”チチカカ湖を発祥の地として、太陽神インティがインカ帝国の始祖マンコ・カパックをチチカカ湖に降臨させたのが帝国の始まりとされています。

クスコを中心に建国されたインカ帝国は、破竹の勢いで版図を広げ、最も栄えた15世紀にはペルー・ボリビアを中心に、南はアルゼンチン・チリ中部、北はコロンビア北部まで、南米大陸の約3分の1を勢力下にしました。彼らの居住地域はアンデス山脈ですので、インカ帝国もまた南米大陸を南北に貫く山岳地帯と高原を基盤としていました。
この広大な面積のインカ帝国で、クスコを中心に網の目のように張り巡らされたのが「インカ道」です。総延長は4万キロとも言われるネットワークで、飛脚「チャスキ」はリレー方式で走り、機密情報が中心のクスコと行き交いました。

この広大な版図の富が集中したのが、首都クスコであったのです。クスコとは、ケチュア語で「へそ」を意味します。南米中で算出される黄金もまたクスコに集まり、神殿は黄金の板で覆われていたと言われます。
それはまさに黄金郷「エル・ドラド」そのものでした。

高度なインカ建築と科学技術


クスコ中心部の神殿など重要な施設は、「カミソリの刃を1枚も通さない」と言われるほど精緻なインカ建築で築かれました。固い石をどのように削ったのか、まるでパズルのように組み合わせた建築物は数百年後の地震でも微動だにしないほど安定しています。
クスコ旧市街に今も残る「12角の石」は、複雑に削り組み合わせる、高度なインカの建築技術を象徴しています。

また、農業では、クスコ近郊のウルバンバ谷に、農業試験場を設置して、農作物の品種改良を行っていました。トウモロコシやジャガイモは南米原産であり、品種改良を最初に行ったのはインカ人であったのです。標高差のあるインカ帝国の気候に合わせた農作物の開発のために、縦穴に段々畑を作り、様々な農作物を開発していました。
科学も発達したインカ帝国は15世紀の後半に絶頂期を迎えます。

スペイン人の襲来と、インカ帝国の滅亡


インカ帝国が突如崩壊したのは、コロンブスの新大陸発見(1492年)に端を発します。南米大陸の黄金郷「エル・ドラド」伝説を聞きつけたスペイン人の探検家(コンキスタドール)は、南米大陸に徐々に上陸してきたのです。その中の一人、フランシスコ・ピサロはわずか168人の騎兵とともに、インカ帝国に攻め込みます。数万人のインカの兵隊を退けて、1533年に皇帝アタワルパを処刑しました。このとき、皇帝の、身代金として帝国中から集めた黄金は建物を埋め尽くしたと言われています。

数では圧倒的な差があったのに、インカ帝国が負けたのは今も謎ですが、見たこともない動物「馬」に乗り、銃という飛び道具を持つ白人のスペイン人を、神の使いと勘違いしてしまったという説があります。
車輪も馬もなく、鉄器の武器もなく、棍棒で戦うインカ帝国は、あっという間に崩壊してしまったのです。

その後、スペイン人の移住が行われ、インカ族は自らの神話も否定され、奴隷として支配される約300年を過ごすことになるのです。スペイン人がインカ帝国に浸透する過程では、巧妙にインカ族同士の対立を煽り、内部からも崩壊させたと言われます。

今も残るインカ帝国の堅固な建築物


クスコ中心部の旧市街には、今もインカ時代の建物をたくさん目にします。その後に侵略したスペイン人は、インカ帝国の建築物を破壊して、その石で教会を始め、スペイン調の町を作りました。
しかし、精緻な石の建築物の基部までは破壊できず、その上にスペイン人は町を作りました。
今でも、クスコ旧市街を歩けば、街並みの基部に、インカ建築をたくさん見かけるでしょう。ヨーロッパで言えばローマ帝国のように、その存在は時を経ても確固としていて、都市の隅々に痕跡を見つけることができるのです。

白壁と赤い屋根:スペイン・アンダルシア地方のような街並み


クスコの街並みは、スペイン南部アンダルシア地方に似ています。白い壁と赤い屋根の古い住居が軒を連ねるからです。クスコ近郊の高台の遺跡からクスコ市街を望むと、美しい街並みを望めます。

このスペイン調の街並みを空から望むと、クスコはピューマの形をしていると言われます。ピューマは、インカ文明において神の使いであり、大地の象徴でした。

インカ文明とスペインの融合と昇華


スペイン、そしてインカ帝国が色濃く混じり合うのが、クスコの魅力です。数百年を経て融合しているようで、実は反発もしている、全く異なる2つの根の激しい文化の昇華が、現代の美しい古都・クスコなのです。

スペインの街並みに残る、インカ帝国の痕跡を辿る街歩きは、クスコならではの旅の楽しみです。写真に撮るスポットは無数にあり、治安の改善もされているので、安心して観光を楽しむことができるでしょう。

インカの文化復興が進む現代のクスコ

長くスペイン人に侵略されることにより、宗教や生活の深くまでスペイン文化が入り込んでいましたが、20世紀後半から徐々にケチュア族のオリジナルの文化であるインカ時代を復興するムーブメントが起きています。すでに生活に溶け込んだスペイン文化を受け入れながらも、綿々と静かに受け継がれたインカの文化を復興させることで、ケチュア族のアイデンティティもまた復興しているのです。

クスコ周辺の遺跡群

サクサイワマン遺跡/城塞遺跡


クスコ中心部の裏山の頂上にあるのが、サクサイワマン遺跡です。
この遺跡は巨石を組み合わせたことで有名です。ピューマの形にデザインされたクスコの輪郭において、このサクサイワマン遺跡はピューマの頭に当りました。
この遺跡は城塞として、幅数百メートに渡り、3メートル以上の巨石が無数に組まれています。その階層は三段に及び、約50年かけて建築されたと言われます。

太陽神インティを中心に、神話や宗教を礎にしたインカ帝国では、この城塞遺跡にも神話的な意味も付与されています。3段の城壁は、天・地・地下の3つの世界観を現すと言われます。天の象徴はコンドル、地の象徴はピューマ、地下の象徴はヘビです。

この城塞は、スペイン人に抵抗した皇帝マンコ・インカ・ユパンキの軍事拠点となりますが、スペイン人に敗北したのちは、基部を残して破壊され、現在の姿となりました。

ケンコー遺跡/祭壇遺跡


宗教施設であったケンコー遺跡は、他の遺跡と異なり、芸術品のように精緻に彫り込まれています。
巨岩を中心に、表面から内部まで、複雑怪奇な階段や祭壇のような彫刻に覆われています。この遺跡もまた、インカの世界観を体現して、天・地・地下の神々を祭る役目であったと言われます。

タンボマチャイ遺跡/聖なる秘泉


タンボマチャイ遺跡は、サクサイワマン遺跡からさらに標高を上げた3800mの小さな谷間に位置します。
“聖なる泉”として知られる遺跡で、今もなお水が流れています。この泉の水源は謎で、周辺に川や水源が無いことから、サイフォンの原理で水をくみ上げていると言われます。
この泉を中心とした遺跡は、かつて皇帝の宿場・沐浴場であったと考えられ、その歴史はインカ以前の先インカ時代(プレ・インカ時代)から継承されたものと考えられています。

シリーズ:ペルー旅行の魅力を解説





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