フィッツロイ山麓に広がる南極ブナの大森林は、絶滅危惧種・ウエムル鹿の住む森です。
ウエムル鹿は臆病な性格から人気のある所にはなかなか姿を現さないので、フィッツロイの山麓を歩く人のほとんどが目にすることはないでしょう。
もしウエムル鹿を目にすることができたなら、とても運が良いことです
ウエムル鹿を見たと地元の人に言えば、誰もが嬉しそうに話を聞いてくれるでしょう。ウエムル鹿は、パタゴニアの人々にとって“森の妖精”のような存在だからです。
絶滅を危ぶまれるウエムル鹿の歴史は、パタゴニアの南極ブナの森と運命を共にしています。南極ブナの森の中だけで、この鹿は生きることができるからです。草原での生存はできないので、森が減少すれば、ウエムル鹿も減少します。
今では南極ブナの森は各国立公園で手厚く保護されていますが、今から100年ほど前の開拓時代には、広大な面積の南極ブナの森が伐採・焼却されて、放牧用の草原とされました。住む場所を失ったウエムル鹿は、さらに開拓民に乱獲されたこともあり、絶滅危惧種になるほどに数を減らしたのです。
パタゴニアの気候に順応した「南極ブナ」の木は、パタゴニアの森林における多数派であり、南緯40度より以南の地域ではほとんど全ての森林の木は「南極ブナ」で形成されています。
厳しい気候の荒野に森林が形成されるには、長い年月が必要ですので、植林すれば復活するというものではなく、100年前に伐採された土地が森に戻るには数千年の時間が必要なのかもしれません。
かつて羊の放牧で巨万の富を築き上げたパタゴニアの大牧場も、羊毛価格の下落とともに森の保護が重視されています。ウエムル鹿を簡単に見かける時代になったとしたら、それだけ南極ブナの森が元気になっているということでしょう。
もしウエムル鹿を見かけたら、息を潜めて物音を立てずに、静かに観察しましょう。とても臆病で慎重な鹿ですが、人への恐れはあまりないのか静かにしていると、野生の生き物だけが持つ独特な張り詰めた緊張感とともに、すぐそばで観察することもできるでしょう。